2019年10月2日

昔話(むかしばなし)

   初めて私が新陰流を知ったのは、高校生のころに読んだ吉川英治氏の「宮本武蔵」でした。日本一強いと評される武蔵を赤子のように扱う柳生宗厳(石舟斎)の姿に驚き「どんな思想とどんな技術を持った人なのだろう・・・。」と関心を持ち「新陰流を見てみたい」「習ってみたい」と思うようになりました。しかし35年も前のこと、情報といえば剣道誌に掲載される「柳生の特集記事」ぐらい。「名古屋(尾張)に行かなければ無理だろう」とあきらめていました。
 昭和61年(1986年)の秋に奈良県の柳生に観光に赴いたとき、何かに背中を押されるように、柳生にある武道具店「柳生堂」を訪ねました。木刀と袋竹刀の購入が目的でしたが、そこで先代の店主の窪田恒夫さんから「新陰流兵法太刀伝(渡辺忠敏先師編集)」を見せていただきました。裏表紙に書かれた「賛助会員募集」という文字と渡辺忠成先生の住所。メモをとらせていただき、神戸に戻り、渡辺先生にお手紙したのが、私が新陰流を学ぶきっかけでした。
 昭和62年2月に新陰流兵法転会の賛助会員として入会。渡辺忠成先生から「広島に指導者がいるので行ってみては?」という勧めを受けて、2年間ほど月に1、2回広島まで新幹線で通いました。平成2年になり、先生から「大阪で1名、入会希望者がいるので、いっしょに同好会を作ってみませんか?」と提案され、若さの勢いもあって「関西同好会」を立ち上げました。
 9年後の平成11年に支部に昇格し、今年(平成31年)転会から独立し「関西転心会」になるまでの29年。いろんなことがありました。
 一番苦しかったのは、平成7年1月の阪神淡路大震災の時です。神戸で被災した私はもとより、尼崎市記念公園総合体育館も使用ができなくなり、かなり厳しい状況が続きました。しかし、3ヵ月の休会だけで、稽古を再開することができました。
 あの震災を乗り越え、尼崎と加古川で月4回の稽古会が継続できている現状は、ひとえに私達を育てていただいている渡辺忠成先生のご尽力と会員のみなさんの情熱とご厚情によるものと心から感謝しています。初心の「新陰流を習ってみたい」という気持ちを忘れず、「関西で正しい新陰流を学べる場所」として関西転心会を会員のみなさんと力を合わせて護持し、発展させていきたいと思います。(雅月)

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