新陰流とは

新陰流は「新しい陰流」と名づけたように、流祖である上泉伊勢守秀綱(後改め武蔵守信綱)が、愛洲移香斎久忠から「陰流」を学び、これを基礎とし、発展させて新陰流を創始しました。永禄九年(一五六六)流祖が柳生宗厳に相伝した影目録の第一、燕飛の巻に「予究諸流奥源於陰流 別抽出奇妙号新陰流 予不廃諸流而不認」とあることからもそれを窺うことができます。

秀綱は戦国動乱の時代に上野国(現在の群馬県)の箕輪城主長野業政に仕え、その子、業盛の時(永禄六年(一五六三))に武田晴信によって箕輪城落城。城主業盛は自刃。秀綱は城を脱し、東上野の桐生城主桐生大炊介直綱を頼っています。(撃剣叢談)
その後、秀綱は、武田晴信には仕えず、招きを辞して、かつての家臣(門弟)とともに諸国遍歴の旅に出たと考えらます。(本朝武芸小伝)

上洛の途中で訪れた宝蔵院で三日間にわたって柳生宗厳と試合を行い、宗厳に乞われて門弟に加え、柳生家の客となり、その後、京都へ向い、入京して足利義輝に新陰流兵法を上覧。永禄八年(一五六五)に再び柳生を訪れ、宗厳に印可を与え、新陰流兵法二世の正統を継がせました。

この印可状の中の文中に「上方数百人の弟子を治め」という箇所があり、秀綱の新陰流を天下に広めるという諸国遍歴の目的が明確にあらわれています。(正伝新陰流)

永禄十二年(一五六九)からの亀元元年(一五七〇)には武技を正親町天皇の天覧に供し従四位下に叙せられたことや、門弟の鈴木意伯と新陰流の技を披露したとが「言継卿記」あります。従四位下といえば公卿(三位以上)に次いで昇殿を許される高い地位であり、一介の兵法者がこれだけの高位についたのは秀綱の他には存在しません。

上泉伊勢守秀綱の兵法

秀綱は幼少より祖父(時秀)父(義綱)より兵法諸流(中古念流や新当流等)の兵法を習得し、享禄二~三年(一五二九~三〇)秀綱が二十二~三歳の頃に愛洲移香斎久忠より一切の陰流兵法の極意と占術書、愛洲薬方(万病の処置、病の応急手当を記した書)の秘巻を親授されました。

この陰流を本源として、その中から極意を抽出し、創始された「新陰流の技術」を永録九年(一五六六)に柳生宗厳に相伝した目録で見てみると、

燕飛(六箇)
燕飛、猿廻、山陰、月影、浦波、浮舟、獅子奮迅、山霞
参学(五箇)
一刀両段、斬釘鉄截、半開半向、右旋左転(左旋右転)、長短一味
九 箇 
必勝、逆風、十太刀、花木、睫径、小詰、大詰、八重垣、村雲

とあります。

「燕飛」は六箇一群の太刀の総称でもあり、またその第一の太刀の名称でもあります。秀綱が愛洲陰流の表太刀「猿飛」の六箇の太刀を大成し、「燕飛」六箇の太刀と改正したといわれています。

「参(三)学」は、新陰流の真体(象徴)として、秀綱が自ら新たに編み出した太刀であり、新陰流の極意の一切は、この三学の五箇の太刀に現されています。

「九箇」は秀綱が他流(「中古念流」「新当流」「陰流」他)の奥源を極めて、その秘太刀の中から九本を選出し、その太刀の使い方を詳伝するとともに、新たに新陰流としてその術理を開名して、柳生宗厳に正伝したものです

新陰流の理論

新陰流には「孫子」の影響と「禅」の思想が多大に含まれています。例えば「参学」の理合いについて、「孫子」の形篇中に「故善動敵者 形之敵必従之 予之敵取之 以利動之 以卒待之」とあり、この考えが「参学の太刀(かた)」によく現れています。  

この秀綱の創始した「新陰流」の太刀の全てに共通する極意は、新陰流の理論の根源ともいえる「転(まろばし)」です。転というのは、一切のはたらきの本原を示したものである。」とし、「味方が敵に懸かる、待つと、敵の表に出て、また裡(裏)へ赴くという、仮に立てた四隅への動(はたらき)ばかりに則らない。わが方、当新陰流は「無形の位」を真体とするから構えるという心もなく、したがって、常形も定勢もない。敵の動きに連れ随って、能く転化・変動の動きをして、一重の手段、戦術を施すこと、ちょうど水夫が海風を見て自由自在に帆をあやつり使い、猟師が兎の動きを見て鷹を放つと同手段である。」と柳生厳長氏(尾張柳生第二十世)は説明されています。

心法無形通貫十方水中月鏡裏像

柳生家と新陰流

新陰流を相伝された柳生宗厳は享禄二年(一五二九)大和国柳生庄(現在の奈良県柳生下町)に生まれ、天正元年(一五七三)に四十五歳で柳生の庄に身をひそめるまで、筒井、松永、織田などの諸豪族に去就しながら戦闘に明け暮れる人生でした。文録三年(一五九四)に京の郊外、聚落紫竹村において徳川家康に新陰流を披露したことから、柳生家の栄達が始まります。この時に同道した五男「宗矩」を幕下に薦め、慶長五年(一六〇〇)に石田三成の挙兵時、宗矩は石田方の後方を撹乱した功績により、かつて豊臣秀次によって没収されていた旧領二千石を与えられ、翌年さらに千石加増、関ヶ原の役の翌慶長六年(一六〇一)には二代将軍秀忠の兵法師範になっています。

さらに元和七年(一六二一)三代将軍「家光」の時代に家光の兵法師範となり、寛永六年(一六二九)に「従五位但馬守」へ任官を受け、同九年(一六三二)には「惣目付」(後の大目付)の役職につき、将軍に代わりすべてを監察する権力を得ました。そして、寛永十三年(一六三六)には一万石の大名となり、家光の側近として歴史の表舞台に名を残す人物になりました。

正保三年(一六四六)に宗矩が没した後の柳生家は、長男の十兵衛三厳が継いでいますが城勤めが性に合わず柳生に帰り、一万三千人もの門弟を指導したといわれています。兄に代わって家禄を継いだ三男「宗冬」は明暦二年(一六五六)四代将軍「家綱」の兵法師範となり、翌三年には従五位下に叙され飛騨守となっています。寛文四年(一六六四)に家綱より誓紙を受け、同九年には加増され、大名に返り咲きました。(宗矩の死後、遺領を兄十兵衛と分けて与えられたため大名から旗本へ格下げとなりました) 

以後、明治にいたるまで大名として柳生家は地位を保ちますが、宗矩の血統は、宗冬の長男「宗春」とその子俊方(宗春長男)で途絶えています。

新陰流第三世を継いだのは、将軍家師範として地位を築いた宗矩ではなく、宗厳(石舟斎)の長男厳勝の二男「兵庫助利厳」です。利厳は天正七年(一五七九)柳生庄で生まれ、石舟斎から新陰流の技術、理論を注ぎ込まれ、慶長八年(一六〇三)石舟斎から「新陰流兵法目録事」「新陰流截相口伝書」の印可を授けられました。利厳は一度、肥後に出仕しましたが一年足らずで肥後を立ち去り、その後、数年浪々し、熊野の阿多棒庵なる者から新刀流の長刀、鑓の相伝を受け、慶長九年(一六〇四)には石舟斎の独創の極意書である「没茲味手段口伝書」とともに新陰流三世の印可相伝を授けられています。

その後、兵庫助は元和元年(一六一五)三十七歳の時に尾張の徳川義直に兵法師範役として五百石で仕え、新陰流は尾張徳川家の御流儀となり、以後その道統に藩主代々と歴代の柳生家当主が交互に名を連ねることになります。こうして尾張柳生家は明治維新を向かえた第十九世厳周氏まで尾張徳川家の兵法師範家として、新陰流を護持し代々技術を継承してきました。

新陰流の技術の変化

宗厳が秀綱より伝えられた新陰流を、宗厳が与えた目録より考察してみると、「新陰流兵法目録事」には、秀綱から宗厳に相伝された目録にある「参学(参(三)学円太刀)」と「九箇」の太刀に加えて、「天狗抄、太刀数拵八つ(添截乱截 無二劔 活人剣 高上 極意 神妙劔 八箇必勝)、廿七箇条截合(序:上段三 中段三 下段三)(破:折甲二 刀捧三 打合三急 上段三 中段三 下段三)という太刀名と、「身懸五箇事」「目付二星・嶺谷・遠山事」など、太刀を使うときの注意事項を細かに記載してあります。

その後に「参学」一本目の「一刀両段」から「九箇」「天狗抄の八つ(太刀名が高林坊、風眼房、太郎房、栄意坊、智羅天、火乱房、修徳房、金比羅房)」と「活人刀」まで絵と太刀(かた)の詳細が記述されており、「高上、極意、神妙劔」は絵がなく太刀の詳細のみ、「八箇必勝」と「廿七箇条截相」は太刀名のみ書かれています。

渡辺忠成先生によると「宗厳は秀綱より伝授された諸太刀のうち、他流の太刀であった九箇之太刀(九本)を新陰流として整備改革するとともに、勝口のみで太刀(かた)として未整備であった天狗抄・奥之太刀などをも太刀(かた)として整備し稽古に便ならしめた。とくに天狗抄は太刀名をすべて改めている。」とまとめられています。

宗矩は将軍家の兵法師範であった同時記に親藩、譜代、外様、幕閣々僚等多数に新陰流を教授しています。現存する宗矩が与えた、寛永九年(一六三二)以後に書かれたと思われる「新陰流兵法之書(進履橋)」は上泉伝来の太刀名が記載されています。これによると、「参学」「九箇」「天狗抄」「外太刀(添截、乱截、極意、無二劔、活人 劔、神妙劔)」「二七箇条截相」であり、流祖秀綱、父宗厳の新陰流の太刀をそのままの形で受け継いでいます。

また、「進履橋」をはじめ、現存する兵法目録等には、宗矩が受け継いだ新陰流の技法や体の使い方、心の持ち方など、事細かに説明しています。その主たるものが、寛永九年(一六三二)に完成したとされている「兵法家伝書」です。これは前掲の「進履橋」と「殺人刀」「活人刀」という書物三部の総称であり、将軍家からの下問に対し、文書を持って答える必要性から、新陰流の学習理論を体系化したもので、伝来の目録に対する教外別伝として創られています。

尾張柳生において新陰流の技術は大きく変革します。兵庫助厳利は流祖からの新陰流の技術と祖父宗厳が工夫した技術(沈なる身の甲冑剣術=:戦国時代において重量のある甲冑着用時の剣術。甲冑の防御力の活用、さらにその重量を支える低い姿勢(沈なる身)が必要になる)をすべて受け継ぎましたが、時代に即応する技術が必要になり、甲冑を着けない素肌の截相の場合を想定した直立身位(つっ立つった身の位)を考案しました。これは兜を考えずに太刀を上段(新陰流では雷刀という)に取り上げ、字のごとく重心を下げずに高い姿勢からの太刀使いができる姿勢に変化させたものです。

さらに、兵庫助の三男、新陰流第五世「連也斎厳包」は「燕飛六箇の太刀」を六本続けて使うように改めたり、流祖からの「小転(こまろばし)」という技術と同じ理論で使う「大転(おおまろばし)」というものを制定しました。この「大転」の伝位は当初十二歳以上の少年に授与されるものであったため、太刀使いも初心者用に「取り上げ使い」という一度太刀を雷刀(上段)に取り上げて打つという現在の剣道に近い刀の使い方を教習させるようにしました。さらに、流祖が定めた「目録」「皆伝」という伝位に加え、「大転」「小転」「天狗抄」「天狗抄奥」「内伝」を追加し、それにともない伝授する新陰流の技術(勢法)を区別しました。これらの改革は流祖からの技術を切り捨てるものではなく、入門する初心者が技術を習得しやすいように工夫を加えたものです。

連也斎厳包以降、尾張での新陰流の技術の変革で特筆すべきものは、第十一世柳生厳春と同じ時代に柳生家の兵法補佐役として道統護持に後見した「長岡(桃嶺)房成」が「外伝試合勢法」を制定したことです。名古屋市史によると「長岡桃嶺、名は房成、五左衛門と称す。寛政六年(一七九四)三月、義父左助の禄二百石を襲いて馬廻りに列し、七年、寄合となる。柳生流の兵法に達す。ときに柳生氏、先師没して嗣子なお幼なり。桃嶺ねんごろにこれをみ、代りて師範のことも行い、もって嗣子の長ずるを待つ」とあり、長岡家は、三代五左衛門房英が新陰流第十世柳生六郎兵衛厳儔の高弟となり、第十一世兵助厳春の兵法補佐に任じられ、その子四代長岡五左衛門房成、五代権六郎房躍、六代兵十郎房恭は、ともに柳生師範家を補佐、新陰流が今日まで相伝できた源を開きました。

中でも「長岡房成」は桃嶺と号し、齢四十歳より新陰流の古伝相伝の本伝の講明と外伝試合勢法の祖述を道として、老年になると主候より無役の待遇をうけ、七十九歳の高齢に至る四十年間にわたり、その祖述の大著実に数十冊に上がり、新陰流中興の道業を建てました。

補佐役である長岡家の当主が新陰流の道統の護持に多大な功績を残した背景には、安永年間(一七七二~)新陰流第十一世兵助厳春の時代になると伝来の新陰流の技術が混迷していたようで、先々代にあたる連也斎厳包の遺命により摩利支天像の中に厳封された「新陰流兵法目録」の包みを厳春が開封し、その目録の詳述により、乱れていた技術の矯正を行ったという逸話が残っています。

房成が制定した「外伝試合勢法」は、房成の説明によると「経験の浅い者が試合するにあたって、勝ちを制する方法を知らずに誤った道に陥る者が多い。そこで古今の必勝「転勢(まろばしせい)」を基本に、優れた先輩の教えによって善悪を明らかにし、およその試合の型を作り、同門の初学の者に方法を示した。」とあります。

外伝試合勢法は、新陰流の剣術における勝口を学習するもので、現在教習されるものだけでも百五本を数えます。例えば「外伝試合勢法」の一番初めに教習する「相雷刀八勢」においては参学円之太刀(つっ立つった身の位)の「一刀両段」の合撃、水月と呼ばれる間積もりの方法、無刀取りにつながる体の使い方など多くの新陰流の理論が取り入れられています。

この外伝試合勢法を稽古することにより内伝(参学、九箇、燕飛など流祖から受け継いだ刀法)の技がより深く学習できるのです。

関西転心会 集合写真
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